はじめに
大学を卒業してから、いつの間にか半世紀以上が過ぎてしまった。
気がつけば、友の多くはすでに、仕事をひととおり終えて静かに引退している。
長年住み慣れた東京を離れ、生まれ故郷の南の島へ戻った者もいる。
そうした話を聞くたび、人生とは、思っているより早く次の季節へ移ってしまうものだ、としみじみ思う。
だから、最近私は、多少遠くても、できる限り出かけて行き、幼馴染をはじめとする友人たちに会うようにしている。
顔を合わせ、近況を報告し合うだけのことだが、それが不思議と互いの心を温める。
こちらが何か特別なことを話したわけでもないのに、「会えてよかった」と喜ばれることがある。
人は、言葉以上に「会う」という行為そのものに救われるのかもしれない。
さて、ここから先は、私の記憶だけを頼りに書く。
細部は事実と違っている箇所があるかもしれない。その点はあらかじめお許しいただきたい。
本文は音声入力で記しているため、言い回しが整いきらないところもあるだろう。
内容について元々賛同できない部分がある方もいらっしゃると思うが、そこも含めて、どうか寛容に読んでいただければありがたい。
ワクチンのこと
近ごろ、米国の政権人事に関連して、ワクチンをめぐる議論が再び熱を帯びている。
トランプ政権下で厚生行政を担う立場に、ロバート・ケネディの息子が就任した。
彼は反ワクチンの主張が強いとされ、新型コロナウイルスに限らず、広くワクチン全般に懐疑的だとも言われている。
さらに驚くべきことに、共和党の中でも一定の影響力を持つ宗教色の強い支持がある、という見方もあるらしい。
もしそうだとすれば、その方針は、叔父であるケネディ大統領の時代に語られた「公衆衛生」への考え方とは、正反対の方向に見えてしまうのだが
――歴史というものは、ときに血縁ですら平然と裏切る。
私自身、アメリカでワクチン接種を経験した。
上の娘が小学校一年生に入学する際、母子手帳を持参して手続きをしたところ、「二種類のワクチンが未接種だ」と指摘された。
日本ではすべて受けたつもりだったが、現地の基準とは一致しなかったのである。
やむなく、その場で追加の接種を受けた。
ところが、そこで直面したのは費用だった。
思わず「高い!」と声が出るほどの値段で、医療の仕組みの違いを、身体より先に財布が痛感した。
当時の日本は、今とは違う。
予防接種の水準が先進国レベルに達していたとは言いがたく、医療現場の感覚としても、どこか「追いついていない」という
空気があった。
ところが、その後の努力により、日本の予防接種体制は整い、先進国レベルと認められるようになっていった。
医療に携わる者として、その歩みは素直に誇らしい。
しかし残念なことに、新型コロナ感染症が世界的に大流行した時、日本は新型ワクチン開発で大きく遅れた。
欧米は先行して製造し、それが現在も使われ続けている。
中国も開発したとされるが、評価はさまざまだった。
遅ればせながら日本もようやく作った。
mRNA ワクチンである。
これは進行がんを直接治す薬ではないが、予後の改善と関連する可能性を示す興味深いデータが出た。
効果が強いということは、裏を返せば副反応も強く出る可能性がある
――医療はいつも、この表裏一体の綱渡りだ。
ここで私は、十年前の子宮頸部ワクチン(HPV)をめぐる騒動を思い出す。
接種を受けた高校生が全身の痛みを訴え、のたうち回るような映像がテレビで繰り返し流れた。
印象は強烈だった。
「ああ予防接種は終わったな」と思った。
そして世間は「ワクチンのせいだ」と一気に空気を固め、大反対が起こり、接種は事実上中断された。
あの時、この事態に対して、勇気を持って「真実」を語る人が、どれほどいただろうか。
事なかれ主義のまま、結局ワクチン接種は十年間止まった。
年間に千数百人ががんになると言われる中で、いったい誰が責任を取るのか。
国民に十分な説明がなされないまま、無責任な空気だけが残ったように思える。
そして、近年WHO からの強くワクチンを行うように勧告され。
やっと重い腰をあげた。恥ずかしい話である。
もう一つ大きな問題は、日本が自ら「大国としての地位」を捨て去ってしまうことだ。
せっかく技術が育っても、それを社会が使おうとしない。
新型コロナワクチンに関して言えば、退場したに等しい、という言い方すら成り立ってしまうのではないか。
こうした構図は、実は医療に限らない。
たとえば中型ジェット機の計画を放棄した話も、似た匂いがする。
ワクチンもまた、四十年前に戻ってしまうのだろうか。
子どもたちが海外へ留学しようとする時、接種歴を理由に入学そのものを断られる可能性がある、という想像に至らないのだろうか。
大国は、時に自らの価値観を押しつけてくる。
その現実を、私たちはどこまで見据えているのだろうか?
ロバート・ケネディ・ジュニアが厚生行政の要職についたという話を聞き、ここでケネディ大統領について、皆が知っていることを中心に、少しだけまとめておきたい。
彼は民主党の政治家としてアメリカに多大な影響を及ぼした。
父の代から莫大な資産を受け持ち、父親は、1929 年の株価暴落の直前に株を売り抜けて大儲けしたという逸話もある。
そして彼自身は、第二次世界大戦―太平洋戦争の英雄でもあった。
南太平洋――。
そこは、第二次世界大戦という巨大な悲劇の只中で、若きケネディが生死の境をさまよった場所でもある。
彼が乗っていたのは潜水艦であった。
日本軍の駆逐艦に衝突され、艇は真二つに破壊された。
暗い海の中で、ケネディは仲間を見捨てなかった。
重傷を負いながらも、負傷兵を曳航し、全乗組員の命を救った。
この行動によって、彼は太平洋戦争における米軍の英雄となり、後にアメリカ国民から深い敬意を集め
る存在となった。
最近、偶然にもテレビを観ていた。
「なんでも鑑定団」で大統領から駆逐艦艦長に対して記念の色紙が送られていた。
その鑑定額もかなりの高額の査定がされた。
大統領にとっても大変、ありがたいものであるということを示していた。
しかし、その英雄的行為の代償は大きかった。
衝突の後遺症として、彼は慢性的な腰痛に悩まされるようになる。
一説には、単なる外傷だけでなく、副腎の損傷があったのではないかとも言われている。
若い頃に行っていたアメリカンフットボールの影響も否定できないが、いずれにせよ、彼は後年、アジソン病を発症したと推察されている。
副腎機能の低下により、皮膚の色は次第に濃くなり、皮下脂肪がつきにくくなった。
その結果、彼は病を抱えながらも、むしろ引き締まったスポーツマンのような風貌を持つようになった。
皮肉なことに、その姿が、後に彼を大統領へと押し上げる要因の一つとなる。
大統領選挙における、史上初のテレビ討論会。
対峙したのはニクソンであった。
年齢は上、疲れた印象のニクソンに対し、若く、健康的で、言葉の輪郭がはっきりしたケネディは、画面の中で圧倒的な存在感を放った。
討論が始まる前まで、不利とされていた立場は一変し、世論は彼に傾いた。
そして結果は、ご存じの通り、大統領当選である。
第二次世界大戦での極限の体験、長年にわたる病との闘い。
それらを経て、彼は「強い信念」と「揺るがぬ意志」を備えた人物となった。
彼は国民に対し、ただ希望を語るだけではなかった。
国家とは何か、自由とは何か、そして国民一人ひとりが果たすべき責任についても、明確な言葉で語った。
その姿勢が、多くのアメリカ国民の心を掴んだのである。
私はかつて、ダラスの事件現場を訪れたことがある。
教科書や映像で見た場所――狙撃が行われた道路、そのすぐ横にある二階建ての建物。
リー・ハーヴェイ・オズワルドが銃を構えたとされる位置に立ち、周囲を見渡したとき、率直にこう思った。
ライフルで撃たれたならば、「これは、簡単に撃たれてしまう」現場に立つと、歴史の出来事が急に生々しい現実
として迫ってくる。
時代は移り、政権は民主党から共和党へ、さらにトランプ政権へと変わった。
価値観は驚くほど容易に反転する。
昨日まで常識だったものが、今日には否定される。
その変化の激しさは、アメリカという国の強さであると同時に、危うさでもある。
アメリカ人の憧れであった、ケネディ大統領はなくなり、その奥さんはずっと年上のギリシャ人の船舶王、オナシスと結婚した
アメリカ人の嘆きが如何程だったかわかる気がする、しかしながらその理由についてはよくわからない。
それも60 年以上経ち、ギリシャ国内が経済破綻をしてしまった。
その影響を、私たち日本人は「遠い国の話」として片づけてよいのだろうか。
風向きが変われば、医療も、科学も、価値観も、一気に揺さぶられる。
その現実を、私たちは冷静に、しかし真剣に受け止める必要がある
――そう思わずにはいられない。
ただ、50 年の間に、このように、価値観が劇的に変わってしまった。
しかしながら
普遍的なものには変わりはないはずである。
真実を極めること。
そして、勇気を持って立ち向かうこと。
このことに変わりはないであろう。
最後に
十年前にノーベル文学賞もらった、ボブディランの代表作、(邦名)風に吹かれて。
The answer my friend is browning in the wind
いくら呼びかけても、友の返事は返ってこない。
自分で答えを見つけるしかない。
われわれは、少なくとも、今は次の時代の人たちに少しでも。
役に立つようにしたい、と願い、行うだけである。


